沢木耕太郎氏の「一線」

好きな作家の一人である沢木耕太郎氏といえば、ノンフィクション作家として「一瞬の夏」や「深夜特急」といった独特の世界観を表現しています。その沢木氏には作家としての矜持ともいうような「一線」が存在するようです。その「一線」とは・・・

ノンフィクション作家はずっとノンフィクション作家である、とばかり思い込んでいましたが、沢木氏は著作「血の味」で小説も書き始めました。ノンフィクションとフィクションの間にある深い河という「一線」をいとも簡単に越えることができたのは、ノンフィクションもフィクションも単なる表現の手法に他ならないからなのでしょうか?

沢木氏のエッセイを読むと、ノンフィクションという手法の難しさがたまに出てきます。創作でないからこそ生まれる緊張感や臨場感とともに、創作でないからこそ越えることのできない「一線」が存在するからなのかもしれません。それは取材にもとづいた真実を構成してものを書くという「一線」であると同時に、取材対象者との約束を守るといった「一線」でもあります。つまり、いいインタビューができても、取材対象者が書かないでほしいと要望したら、それを書くことはしないという「一線」が沢木氏にはあるようなのです。それを小説という別の方法論を用いることによって昇華することができる・・・それがノンフィクションとフィクションの間の河を渡る必然性を沢木氏にもたらしたのでしょうか・・

もうひとつの「一線」は沢木氏のノンフィクションにもエッセイにも父親を除く現在の家族の像が出現しないということがあります。自らの日常を書いたエッセイは存在しても、私が読んだ範囲(全部は読んでいません)ではほとんど現在の家族は描かれていないのではないでしょうか。勝手に推測するに、これも沢木氏の中にある「一線」なのではないか・・・そんな気がします。自分自身と取材の対象者は素材とはなっても、家族をネタに巻き込まない・・それは安全上の理由もあるのかもしれませんが、あるいは作家としての矜持という「一線」なのかもしれません。

作家でなくても、きっとそれぞれの「一線」というものがあるのでしょうが、普段はそれを意識することはあまりありません。自分の「一線」は何か、それは渡るべきものか、渡らざるべきものか・・・なーんて思いつつ、沢木耕太郎氏のエッセイ集「像が空を」を旅の途中で久しぶりに読んでいました。沢木氏の著作は旅に、そして夜の仕事の合間に(まあ、寝た方がよいけど)最適の1冊です。うう、東北の3月はまだまだ寒いです。

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この記事へのコメント

2007年03月04日 00:23
沢木耕太郎は、清潔な感じがします。
昔「深夜特急」とか読んだことがあります。

やしさんが、旅の途中で本を開くというシーンに沢木耕太郎はぴったりかも・・
2007年03月04日 15:10
kotanさんコメントありがとうございます。
なるほど清潔なイメージですか。そうかもしれませんね。私のイメージでは貧乏旅行する小汚いイメージですが・・笑。(ご本人には失礼ですけど)沢木氏の本は旅には最適ですね。

よく古本屋によりますが、先日星野道夫の「ノーザンライツ」を見つけました。買わなかったんですが、ああいうのも一期一会かもしれない・・なんて大げさですね。

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